| 人権というものはやはり、フロッガーさんのおっしゃるとおり、国家権力に対抗するものと考えます。 人権という概念自体が、ヨーロッパで生まれ、完成したものですが、ヨーロッパにはやはりそれが生まれ、根付くだけの歴史と土壌と宗教がありました。 ピューリタン革命・名誉革命を経て、王権神授説的な時代を壊し、権利という概念が生まれました。
こういった歴史の背景にはやはり神との契約を軸とするキリスト教があるのではないでしょうか。 一方日本の宗教は、和をもって尊しとなす。平和主義といえば聴こえはいいですが、人権・民主主義といった契約を基盤とする概念とは水と油です。
だから西洋のサルマネの裁判など、オママゴトそのものでちゃんちゃらおかしい。 アメリカの裁判のテレビドラマのほうが、日本の本物の裁判よりもはるかにリアルでスリリングです。それはあるべき役割をあるべき役者があるべき形で行うから。日本は所詮、同じ霞ヶ関村の住人同士の乳繰り合いに過ぎない。それに巻き込まれる、主権者とされている国民はたまったものではないです。
二千六百年の歴史のある国体を変えようと思って変えられるものではないのかもしれませんが、そういうお国柄なんだということくらいは自覚するべきだと思います。
「民主主義」「人権」「自由」「平等」「博愛」「平和」 日本人にとっては、どれも「なんかキレイそうな似たようなもの」であり、せいぜいオデンの具くらいの違いしかないもののようですが、ひとつひとつまったく違う概念です。
公の下僕どもが図に乗り、主人である「民」へ平気で噛み付く、山崎さんのおっしゃっているような状態だけは一刻もはやく変えなければなりませんね。まがりなりにも民主主義を名乗るのなら。それでなければ、民主主義国家ではないと高らかに宣言してほしいもんです。
本音と建前を分けるのが大好きな日本人。 肉食が禁じられていた江戸時代、猪を「山くじら」として堂々と看板を出していました。クジラを食うなというのなら「海イノシシ」と主張したらどうかと思います。 麻も「山ワカメ」として栽培してはどうでしょうか?
なんだかよくわからなくなってきてるのでTaku先生に人権についてご教授いただきたいです^^; |